阪神・淡路大震災から15年。
日本人として、決して忘れてはいけない出来事の1つだと思っています。
阪神・淡路大震災が起こった1995年。私は諫早青年会議所に所属していました。
2月に入り、仲間数名とともに被災地へ赴きました。
私が向かったのは兵庫県芦屋市。
長田区や須磨区などのように、街が全壊してるわけではなかったですが、それでも、押しつぶされた家や倒壊しかかっているマンションやビルなどが多く、街は息をしていませんでした。
家屋は残っていても、ライフラインがすべてストップしている状態では生活できるはずもなく、多くの方が小学校などの体育館に避難していらっしゃいました。
救援物資の配布作業、仮設トイレの掃除、給水車から各自宅までの運搬作業。思いつくこと、目の前にある作業、いろんなことをお手伝いさせて頂きました。
家屋が倒壊していなくても、水が出ないので食事の準備やトイレができない。だから、救援物資に頼らざるを得ない。仮設トイレに頼らざるを得ない…。
一瞬で日常の生活から遮断された人々が、そこにいました。
給水車が回ってきたとき、ポリタンクを手に並ぶ人々。その中の1人の女性のお手伝いを私はしました。
団地の4階まで重いポリタンクを一緒に運びました。
彼女は母子家庭。男手がいないので、震災後の水運びが大変だと話をしてくれました。たぶん年齢は30代前半。家の玄関には可愛い三輪車が置かれていたのを記憶しています。
その時私は独身。そんな話を聞いても上手く理解できず、ただ、目の前にあったお手伝いできる事として対処していたように思います。
ですが、今ならわかります。いや、想像ができます。
あの状況の中で、子どもを、生活を守らなければならないという切迫感は、相当なものだったと思います。
普段なら蛇口をひねれば出てくる水が、大変な労力を経なければ手に入れられない…。水だけじゃなくすべての物が、そういった状況だったと思います。
こんなふうに想像はできても、被災者の方が体験された苦しみには、遠く、及ぶことができません。
ただ、あの時、全国、いや世界各地から集まった人々の思いは、きっと、何かの形で受け継がれていくのだと信じています。
ボランティアの私たちの宿を提供して下さったのも、またボランティアの人たちでした。こうやって世界がつながっていけばいいのに…と、いま改めて思っています。
犠牲になられた方々のご冥福を、今日再び、心よりお祈り申し上げます。
バイカー修です。
あの時僕は大村青年会議所メンバー・・。阪神淡路大震災救助には行けませんでした。
その後の敦賀ロシア船ナホトカ号座礁重油除去作業には2回、大村JCからただ一人行きました。
除去ボランティアの方が一人、冬の日本海の寒さと重油の揮発性ガスで亡くなりました。
ボランティアも生半可ではやれないとつくづく感じました。
自分がどれだけの思いで参加したかは疑問ですが、参加したことで得たものは・・・今になって強く感じ入ることがおおいですね。
それとタクシーママと参加したタイ・ミャンマーのこともね。
バイカー修さん、こんにちは。
経験というものは、その時に得るものがなくても、自分にとって糧になっている事は間違いないですね。
私も同じです。阪神淡路大震災時のボランティアも、タイへの協力活動も、今になって多くの事を感じ、それが自分の糧となっています。
それと同じ。今のこの苦しみや悩みも、きっと私の中に「何か」を作ってくれているのでしょう。未来のために。
だから、いつも一生懸命でありたいと思っています。…と言いつつ、とても穏やかな充実した日々を送っている今日この頃です(^_-)-☆